インドネシアらしさと仕事の難しさ、ロンボク島クタのホテルでタクシー手配

チェックイン時にホテルのレセプションで帰りの空港タクシーの予約を頼んでおいた。「いくらですか?」と尋ねると、15万ルピアだと即答する。「それでは、その金額で2日後のチェックアウト時、午前10時に迎えに来るように予約してください」と伝えた。 さらに読む

駐在国の人と歴史認識を対等に語ること

毎年8月を東南アジアで迎えると、独立記念日の熱気に触れる。この地域で働いている日本人としては、大東亜戦争前後の歴史を勉強し続けなければならないと思っている。

日本人が間違ってもやってはいけないのは、現地の人の歴史認識を鵜呑みにすること。尊重しつつも、戦後その国でどのように歴史を教えてきたのか把握する必要がある。これは現地の教科書や、博物館で勉強できる。

私はインドネシア各地の歴史・軍事博物館は時間の許す限り訪れるようにしているが、その多くでは、オランダや日本を並列に捉え、インドネシア人が独立を勇敢に勝ち取ったことだけが主に伝えられている。

たとえば、以下の史実を総合的に知っているインドネシア人はほとんどいない。

日本が国軍の母体を作ったこと。再占領を試みた国連軍の命令で武器供与が禁じられていたところへインドネシア部隊が攻め入り日本軍と戦闘になって死傷者が出たこと。国連軍の命令に反して独立派へ武器の供与を行った部隊があったこと。敗戦前に独立準備委員会を立ち上げ現在の憲法理念が作成されたこと。帰国せずに独立戦争を共に戦った日本人がいたこと。国連軍が再占領をする余地を与えず、独立宣言文が敗戦直後の8月16日に日本大使館駐在武官の公邸でスカルノらによって起草され、翌日発表されたこと。独立宣言文の日付に皇紀が使われていること。

1945年の日本敗戦後の撤退前、ジャワ島中部スマランで起きた日本軍とインドネシア民兵の5日間の紛争でインドネシア側に多数の死傷者が出た。ほとんどのインドネシア人の学校教育では日本軍が民間人を虐殺したのでひどいという印象を皆持っている様子。

史実はこうだ。敗戦後連合国軍の傘下で連合国軍が上陸するまで治安維持を命じられていた日本軍が、インドネシアの民衆による先制攻撃に応じたもの。インドネシアの民衆が来る独立戦争を戦うために、日本軍に武器・物資の引き渡しを要求したが、連合軍に引き渡しを禁じられていた日本軍は拒否。拒み続ける日本軍への要求が次第にエスカレートし、日本の民間人への攻撃や虐殺が横行するようになり、連合軍が応戦許可を出したことにより、日本軍が治安維持活動を行った。インドネシアではただ単に5日間日本軍に勇敢に立ち向かった民衆と、それを虐殺した日本人として記憶されている。

各地の歴史資料館の展示を隈無く読めば、少しずつ記載はあるが、義務教育の教養レベルでは日本もオランダも同等に悪い奴らだったという薄い内容のようだ。少なくとも教育水準の高い同僚とはなしていても、私が学んだ歴史を伝えると驚かれることが多い。

ナショナリズムの高揚が近年のインドネシアの方針となっているからこそ、当事者であった私たち日本人は歴史をしっかり学び、憶せず史実が間違って認識されている部分については反論していくことが大切であると感じる。

学位に価値を置く国の問題点、学歴社会のインドネシア政府

インドネシアは学歴社会で、行政官の昇進に学位が要求されてきた。研究キャリアの人が行政官をやっている。意思決定の前に学術研究を外注して実施しなければならないとなっていて、それによって意思決定が遅く頻度も少ない印象。何書いて良いかわからず、外注先の若手研究者から私に相談があって、私が書いたレポートの引用箇所を示したり、コピペで使えそうなPPTを渡したりしている。何でもかんでも学術・研究・エビデンス好きな人で固めると、実務の停滞が顕著になってくるのを現場で見ている。 さらに読む