インドネシアに住む華僑に残る過去の記憶
2023年10月、カメラを新調した。2014年に買ったエントリーモデル一眼レフはとうの昔に埃をかぶっていた。
コロナ渦が過ぎ去った2023年夏、ジャカルタの住宅街の隅々まで歩き回ることが私の日課となっていた。数十メートルおきにある「トコ」呼ばれる個人商店でポカリスエットを買い、軒先に座っているおじいさんと談笑する。街角の木陰にはきまって自転車の移動販売コーヒー屋(スターリンク)がおり、その周りにはバイクタクシーのドライバーや休日の地元民がたむろしていて、その中に飛び込んで一緒にコーヒー(コピトゥブルク)を飲む。そこから眺める通りには色々な商売がある。炎天下にもかかわらず着ぐるみに全身を包み、ペットボトルを半分に切った器に小銭を集めて歩き回る若者。かすれた声で歌う中年が抱えるぼろぼろのギターの先にも器がついている。この街の人々は懸命に生きていて、その中に平穏が隠れている。同じ時間に身を置くことがこの上なく楽しい。そして、ワルンと呼ばれる大衆食堂でスープ料理を地元民と啜り、週末の朝の日課を終えて帰宅する。
街歩きをする中で、ジャカルタの人々が写真好きだと知った。仕事で知り合ったカメラマンに街で一番良いカメラ屋をきき、タナアバン地区にある「フォーカスヌサンタラ」へ足を運んだのが2023年10月。あれからほぼ毎週末、カメラを手に住宅街や市場を歩き回り、人々の暮らしに触れてきた。
昨日のことのように思い出す。フォーカスヌサンタラを訪れたとき、一人の青年が声を掛けてきた。
「何を探しているのですか?」
世界中の新興国で暮らしていると、こういうときは反射的に身構えるものだ。はじめて訪れた店で話しかけられれば、不愛想に振る舞い、軽くあしらうのが護身術である。ところが、影のない青年の語り口調に悪い印象を受けず、五感が「大丈夫だ」と返事をした。あとでわかったのは、この青年は当時23歳の華僑(※)三世。知人の華僑の商売を手伝っていて、映像コンテンツをSNSへ投稿している。
インスタグラムでのやりとりが一年ほど続き、昨年後半からときどき一緒に写真を撮りに行っている。一緒に行動するようになって気づいたのは、華僑は過去の記憶とともに生きているということだ。
私が歩き回っているトタン屋根の住宅街や市場へ、彼は足を踏み入れたことがなく、両親から近づかないように言われて育ったそうだ。その理由を知るには歴史を振り返る必要がある。
彼の両親が若かった頃、大規模な華僑への攻撃があった。
1965年9月30日のクーデター失敗(9月30日事件)をきっかけに、スカルノ大統領からスハルトへ全権委任がされ、いわゆる「共産主義者狩り」が行われた。スハルト政権下では共産主義者の名目で、華僑の大量虐殺が行われたとされる。青年団、イスラム系宗教団体、マフィアが動員され、市民の手で華僑がターゲットとされた。他のインドネシア人とくらべ、肌の白い華僑は一目でわかるため、見た目だけで誤認された人が多くいたことは容易に想像できる。クメールルージュを超える東南アジア最悪の虐殺といわれているが、現在に至るまで詳細な検証は行われていない。
日本との関係で言えば、1974年1月15日のマラリ事件を思い出す。田中角栄首相がインドネシアを訪問した際、ハリム国際空港を暴徒が取り囲んだ。首相は迂回路を通って会談へ向かい、ヘリコプターで空港へ戻り、脱出した。暴動の発端は、華僑・日系資本への富の集中に反発し、事務所・商店・日本車などの製品の焼き討ちが行われた。3日間にわたる暴動と鎮圧によって、千名前後の拘束・死傷者と千台以上の車両破壊などの損害が出た。
最も新しい記憶としては、スハルト政権末期の出来事である。アジア通貨危機を発端とした通貨安・物価高に耐えかねた群衆が、国会周辺で大規模な抗議デモを行った。市民の殺傷を含む軍事・警察力で鎮圧を試みたスハルト政権は、1998年5月14日から21日までに拡大し続けた。華僑以外のインドネシアの知人たちからは、「抗議デモによって独裁政権を打倒し、民主主義を勝ち取った」という評価を聞くことが多い。
しかし、抗議デモは暴徒化し、華僑の商店や家屋への投石や放火などが相次ぎ、千人以上が殺害されたとされる。過去の事件と同様に詳細な検証はされていない。
こうした歴史を振り返ると、普段は温厚に見えるインドネシアの人々は、抗議デモなどで集団意識が極限に達するとき、論理を飛躍させて不満の矛先を華僑へ向けることがある。そこには冷静な議論や合理性はなく、圧倒的な数の力で憂さ晴らしをするかのように少数の富裕層を攻撃してきた歴史がある。
今でも街歩きをしていると、中華系住民の家屋は一目でわかる。家屋には侵入を拒む高い塀と鉄柵が全ての窓と扉に設けられていて、中華系住民の居住区は外部からの侵入を拒む城下町のような作りとなっている。
知人と街歩きをするとき、中華系住民はの記憶の中に生きていることを実感する。小道へ入るときやムスリム系住民が多い市場や生活圏に入るときには、彼は常に怯えていて、私が先頭を歩く。両親からはそうした場所を歩かないように教育されていたそうで、暴力にさらされてきた歴史が家庭の教育に反映されている。
断食月に街歩きをするときには最新の注意が必要なようで、「商店で水を買って飲むと、万が一にも暴行される可能性があるから止めておこう」と思ったり、「中華系住民の地区以外で食事をすると、断食中のムスリム系住民に攻撃される可能性がある」と思ったり、そうした危機管理の中で彼は生きている。
そして、2025年3月20日、国会は軍法改正案を可決した。2000年代初頭の民主化時に、軍の影響力を制限することを目的として制定された軍法を改正し、軍人の要職起用を拡大する法令だ。かつてスハルト政権下で国軍を指揮していた現大統領を国民が支持し、歴史が繰り返されることを懸念する人々は多い。中華系住民の間にもその記憶は確実に蘇っており、「目立たないように」と考える人々も多い。
※本文では華僑と華人を便宜的に区別していない。国籍を取得せずに移住している人を華僑、移住先の国籍を取得した人を華人と定義することがある。居住実態はあっても国籍の有無の観点からは曖昧な人々も多かったと聞くため、ここでは区別しない。
インドネシアでは中華系住民に対する暴力が繰り返されてきた歴史を踏まえ、特に2000年代以降にインドネシア国籍とインドネシア名(通名)が広まったと言われている。ただ、政策面では権利制限の緩和が行われてきた歴史もある。たとえば、スハルト政権下では共産主義の排除を目的に、インドネシア名への変更強制、漢字の使用禁止、中華系学校閉鎖、国立大学入学や公務員就職の制限などが実施されていたが、1998年以降、順次廃止された。