週刊誌のせいで負けたアジア杯を振り返る

週刊誌は金儲けのために人の人生を暴露したり、無いことを書いて貶めたりすることが認められる時代。日本代表不動のレギュラー伊藤純也選手が、新潮社のせいでアジアカップから早期離脱することとなった。

一万歩譲って新潮社に正義があったとして、俺たちサラリーマンからあと2試合観るささやかな楽しみを奪う権利はなかった。

それはさておき、審判はある意味公平だった。強いて言えば、審判が違えばこういう展開になった可能性も。1. 序盤、イランはアズムンの踏みつけで退場。2. 中盤、日本のハンドでイランがPK獲得。3. 終盤、イランがPK獲得したシーンは、アズムンが退場済みのため、なし。審判の裁量はまだ大きい。とはいえ、試合は完敗。

週刊誌の記事を引用するのは嫌ですが、このトルシエ監督の感想と全く同じ感覚で日本の初戦から見ていました。

「選手の失望感も感じられず魂もなかった。この日の日本は多くのものを欠いていて、試合に勝ちたいようには見えなかった」

選手は口々に、チームを勝たせることができなかったと言う。その裏にある感情が、「自分が良いプレーをしていれば、チームはもっとよくなった」という感じに聞こえる。そのため、チームの失敗を自分の失敗に転嫁し、一方、自分はベストを尽くせばチームが負けても後悔の念はなくなる。

世代の違いなのか、時代の違いなのか、個人の感覚の違いなのかはわからない。ただ、個人が「組織のために」と言う際の思いが、うまく噛み合っていない気がする。チームとしての熱意。これは日々の自分の周りの仕事でも共通していて感じるところがあった。

裏返せば、日本も個人の力が組織の力となるような西洋社会の感覚に近くなってきたのかもしれない。