1987年3月23日、2歳の僕は、国鉄士幌線にサヨナラと言った
アメリカとスイスに駐在して以来、「北海道はアメリカ型車社会ではなく、スイスの鉄道社会を目指せばよかったのに」と思うことが多いです。
車社会では町中から人が消え、飲食店も八百屋もことごとく郊外の大型店舗に移転します。町からは文化の光は消え、人も消えます。車を運転できない人は知人に会うことも、社会活動に参加することもできなくなります。一人の時間が増え、人と会う機会が減ります。
一方、鉄道社会では駅の周辺に町が形成され、目抜き通りには商店が集まり、町に光が灯ります。地元民はその通りに行けば約束していなくても知人に会うことができ、散在する地区と駅を結ぶ公共交通機関が発達します。
私が生まれ育ったのは北海道東部十勝平野の北端の小さな町。士幌町の名は鉄道ファンの間ではよく知られています。農業以外に産業のない町ですが、広大な農村風景と防風林が美しい情景を作っています。
旧士幌線は1925年に開業しました。私の祖父が生まれた時期です。私の町は岐阜県美濃地区からの開拓民によって作られました。1891年の濃尾地震によって破壊された地区の農民が、北海道に土地を求めて入植してきたのです。祖父は士幌へ入植した三代目で、分家だったため、数か月分の生活費を渡され実家から独立しなければなりませんでした。森を切り開き、開墾し、畑作農家を一代で築きました。近隣の多くの農家が同じような歴史を持っています。
士幌の住民にとって、南へ30キロ離れた帯広が最寄りの大都市です。祖父の時代、母が子供の頃までは、馬車や鉄道で帯広へ買い物へ行ったり、市場へ出荷しに行ったりするのが日常でした。士幌から北へ50キロ離れた十勝三俣には林業で栄えた町がありました。帯広から十勝三俣までを繋いでいたのが国鉄士幌線です。
私が2歳のとき、国鉄士幌線が廃止になりました。サヨナラ士幌線の最終便に乗った記憶は、幼いながら印象に残っています。そこから、私の町は大きく変わりました。町にたくさんあった喫茶店、八百屋、魚屋、居酒屋、スナック、バー、書店、雑貨屋、たばこ屋。私が子供の頃に歩いた通学路は、今は閑散として人気はありません。ほぼすべての店が消えました。
母が子供の頃は鉄道で帯広へ通っていましたが、私が帯広の高校へ通った頃には車社会となっていました。1時間の道のりをバスで通っていました。多くの住民は既に車社会に適応していたため、バスの乗客も少なく、バス停の周りは閑散としていました。駅とは異なり、車社会では人が集まる場所が定まらないことを実感しました。
それから20年以上がたち、次の時代に入りました。日本は観光立国を目指すようになり、北海道にも多くの観光客が訪れています。しかし、観光客の多くは日高山脈を越えず、札幌近郊の道央か近隣の美瑛や旭川までしか足を延ばしません。道東の玄関口である帯広には、札幌から鉄道が来ていますが、帯広から十勝の隅々まで走っていた鉄道は全て廃止されています。帯広へ来たところで観光客は十勝を歩く術を持たないのです。
たとえば、インドネシア人はインドネシアの運転免許証を持っていても日本で運転することができません。そのため、北海道観光の移動手段はバスか鉄道となります。公共バスは不便なので、多くが鉄道で行ける範囲にとどまるのでしょう。
また、私の地元では老いた親世代だけが残り、若者が減っています。免許を返納した高齢者は、隣人を訪ねる術も失っています。その一方、十勝を訪ねたい外国の知人も多いです。しかし、鉄道がないことによって諦めています。
日本も観光立国を目指している以上、「鉄道政策を見直さなければならないのではないか」と常々思います。スイスでは、国鉄が乗り放題パスを発行していて、多くの外国人観光客はこれを購入します。価格は2週間で12万円です。高額に思えますが、切符を路線ごとに購入するよりも遥かに安く、スイスを旅行する観光客にとっては格安です。これにより、採算路線・不採算路線問わず、スイス国鉄は山頂から田舎町ま路線を維持することができるのだと思います。
いつか十勝三俣の絶景を車窓から眺めてみたいと今でも思っています。