インドネシア人の3つの特性

ジャカルタには東南アジア最大の縫製市場がある。ラマダン開けが近づくと日本の年末商戦のように全国から新しい服飾を買いに人がやってくる。普段は縦横無尽に歩き回るのら猫も、踏み潰されまいと路肩で大人しくしている。

市場内外には同じようなバティックやヒジャブが延々と並び、合法か非合法か、あるいは公共のスペースを違法に貸し出しているのか、歩道も歩けないほど。人ひとりがようやく通ることができる一本道に、行き来する人が二列並び、進んでいく。

私のように日常的に使用者や労働者と対話する仕事をしていると、官僚や政治家ではない一般人の性質を把握しておくことが重要になる。

インドネシア人の特性の。一つ、群れる。集団意識が強く、家族、同僚、民族、宗教ごとに固まって生きている。国単位で人々を結びつけているのは国歌、国旗、言語。労働運動も盛んで、多くの人は何の抗議デモか知らなくとも、仲間意識で路上に出る。ジャカルタでは毎日何十ものデモが行われている。

集団意識が強いことの裏返しは、個人主義的側面も強い。アメリカ社会に似て、自分の所属単位以外については、言葉では綺麗事を並べても、本気で互助の対象とみなしていない。そのため、目の前にいる人への寄付は行うが、社会全体で助け合うのが社会保険だと説明しても、ピンとこないようだ。

アメリカ的な感覚がもう一つあるとすれば、家族単位で生活防衛する意識が強い。国の制度や会社などは信用できず、自分の貯金や子供世話になることが当たり前と捉えている。他人が貧しくなることは自業自得と考え、努力を怠った結果だとする。そのため、なぜ成功した自分が社会保障を通じて支援しなければいけないのか、とよく問われる。

二つ目の特性は、カイゼンが行われない。他人に注意したり、誰かの失敗を振り返ることは下品なことだと考えている。そのため、失敗から予防策が生まれることは稀で、同じ失敗を何度も繰り返す。その度に謝罪はするが、改善はなされない。これは会社単位、国単位で日々起きている。例えば、数ヶ月前にサッカー場での将棋倒しによって百人単位で人が死に、政治家が現場視察をするなど、社会問題となった。しかし、今日の縫製市場では、後ろから人がどんどん押し進めていくことを、誰も静止しないし、改善策が市場単位でとられているわけでもない。この特性は、

人の命の軽さにも繋がっている。インドネシア人の命の価値は軽い。サッカー場の将棋倒し以外の事例だと、コロナの初期対応記憶に新しい。致死率は世界で類を見ないほど高く、一時は10%まで上昇し、病院の外には患者が行列を作った。

三つ目は、強制されなければ何もしない。マスク着用が顕著な例で、今日の市場でマスクをしていた人はせいぜい5%。マスク着用義務化が解除されてから、ジャカルタではマスクをしていない人が多数を占める。先週のバンコクでは、任意にも関わらず路上を行き交う人々の多くはマスクを着用していた。任意はこの国では機能しない良い例だ。これを社会保険議論に当てはめると、インドネシアで常に任意適用の社会保険を押す声が大きい。人はそれを自由と呼ぶが、私からすれば過去の失敗に学ばず、インドネシア人の特性を理解していない愚策。任意加入の社会保険は加入者がほとんどおらず、結局何の意味もなしていない。