国際機関の責任-目に見える成果を日々出すということ

ここ最近の自分の働き方を振り返ってみる。普段あまり意識しないが、よくよく考えてみると、大きく変わったのは、チームや部下に求めるもの。それは自分自身にも当てはまり、成果でしか人を評価しない。それはチームのパフォーマンスや自分のパフォーマンスに関しても同じで、成果が目に見える形で出ていなければ、私は一切、自分たちが成し遂げたことを評価することができなくなっている。

インドネシアに雇用保険制度ができた?多くの同僚はこれを私たちの功績だと称賛して止まない。しかし、私は淡々と毎日、成果を出し続けることができるかが気になってしょうがない。ひとつの仕事が終わったときにパーティーをやることもなく、早く寝て、次の日にまた成果を出さなければと思っている。無意識にこう思うようになってしまった。これはリモートワークが長かったせいもあるかもしれないが、目に見える成果を毎日必要としている。

この考え方がどのように形成されたかと言えば、おそらく日々の資金繰りと資金調達を最優先に考え、企画書や資金拠出者との交渉、あるいは報告を日常的に求められる仕事環境にあると思う。ILO本部・地域事務所・国事務所から予算が毎年振り込まれることもなく、自分が出した成績を次の企画に繋げ、資金拠出者に対して説明と営業することによってのみ、私は今ここにいる。

従って、チームや部下に求めることも同じで、成果の出ない活動を低減させ、提案されたことがどのような成果につながるかを具体的に考えていなければ、部下に対しては徹底的に追及する。その過程でなかなか良い提案が出てこず、結局私がすべてを一人で担うことも増えている。たとえば、会議出席や出張への参加も役割がないのであれば参加させないわけだが、インドネシア人の職業文化としては大勢で役割もなく集まり、会議場に来て一緒に飯を食うことを楽しみにしていたりする。これを奪うわけだから、私は仕事をする気のない人たちから人気を失っていく。

ある意味、こうしたことの繰り返しで自分が担う役割が不必要に増えてしまい、他人に頼むことができなくなったことによってAIや自動化を模索するようになった。最新のテクノロジーを使うことによって、自分ができることを増やす循環が生まれた。

小規模な事業を運営する経営者にとっては、部下の教育のために研修費用を工面したり、チームの雰囲気をよくするための課外イベント(リトリート)を行うことは不可能。そういった提案が出てくる雰囲気すらも作ってはならないほど、日々切羽詰まった状態にある。毎日成果を出し続けることだけが、自分たちの存在価値であり、そのために生きている。

バンコクやジュネーブで会議に出席するという名目のもと、成果の出ない旅費の支出をしたり、1週間ほどの空白期間の給料を誰が払うのか。JICAではまずこうした内輪の会議で巨額の経費を計上することはできない。そういう厳しく規律のある環境で教育してもらったからこそ、国際機関の緩さといい加減さが手に取るようにわかる。茹でガエルのように、存在意義が問われていることにも気付かず、キリギリスのような仕事をしていないか。私たちは毎日問い続けなければならない。

現場で日々資金繰り、資金調達、事業運営に追われる私からすれば、余裕のある同僚と出会うたびに感覚の違いに驚く。「少し肩の力を抜いて緩く、仲良くやれ」、と助言する人も多いが、糞を食らえと思う。