「教養のための読書」と「書くために読むこと」の違い

読書の必要性を説く人がたくさんいる中、いつも「あぁ読まないとなぁ」と思って自分を戒める。しかし、よくよく考えてみると、何をもって「読書」というのだろうと感じることがある。

本を買って、一ページ目から最後まで読むのが読書。本を買って、気になる章だけ飛ばし読みするのも読書。本を買って、索引だけ使って困ったときに参照するための辞書・百科事典も読書なのか。私の場合、本を買って一ページ目から最後まで読んだ直近の記憶は、漫画ばかりだ(漫画ばかりなことを批判する人もいるが、漫画から学ぶことはとても多いと感じるので、これを「お恥ずかしながら・・・」とは言わない)。

そもそも、読むという行為を何のためにするのか。「教養を身に着けるため」と多くの人が答えるだろう。読んで自分の中にとどめておくことで、人としての成長が感じられる。そういう体験を私もしたことがある。それゆえに、読書は大事だと感じる日々だ。

一方、「書くために読む」ということが、最近の私の生活の中では大部分を占めている。誰かに伝えるために読むということは、自分の教養のために読むという行為と180度くらい違う筋肉を使うと感じる。

例えば、教養として読むのであれば、よくわからない部分はあやふやに読み飛ばしてもよい。しかし、プレゼンやウェブサイトへ投稿するための情報収集として読むのであれば、わからない部分は他のソースで納得できるまで調べる必要が出てくる。100%の正確性を担保する必要はないが、ある程度納得のいく説明を自分でできるようになる必要がある。

まとめると、教養のために読むことは、広く浅く知識をつけるための行為。書くために読むことは、狭く深い知識をつける行為。

私の周りには優秀な人が五万といて、みんな本を読むスピードがウサイン・ボルトよりも早い。同じ仕事をしていても絶対にかなわない人ばかりだ。

ただ、多くの人が教養のために読むことに注力していて、書くことを前提としていない気がする。アウトプット重視の読書へ転換していくと、面白いのにな、と思う日々である。そして、アウトプットの場として、The Povertistを使ってほしい。

それは同時に、教養のために読むことをしばらくしていない自分への負い目でもある。

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