インドネシア社会が向かう先と、社会保障が広まらない理由
1月12日。ジャカルタのスタバではまだメリークリスマスのジャズが客を迎え、オフィスもデパートもクリスマスツリーを飾っている。新年の飾りもあれば、翌週に迫った旧正月を祝う飾りも混在する。
対応が場所によってまちまちなところを見ると、ここではそれを規律のないだらし無い会社だと見做す声もなければ、それを正すよう促す客も上司も同僚もおそらくいない。
インドネシアは日本以上に忖度社会で、他人に干渉されることを極端に嫌う。それは仕事の場面で改善が現場レベルで自発的に発生しないことを意味する。同僚や上司や客は相手に注文をつけず、弱い立場にある人は強い立場にある人の顔色を伺い、行動する。
結果的に他人に迷惑が掛かろうとも、自分の所属しているコミュニティの上席が喜ぶように振る舞う。客より上司、会社より家族が忖度ランキングでは上位にいる。
インドネシア人はコミュニティ人の繫がりを大事にする民族だ、と言う。ただ、この場合のコミュニティは自分の所属と上記の階層を重んじるという意味であって、社会全体という意味ではない。
他人のコミュニティへの接し方はどうか。金持ちや階層が上の人が下のものに寄付することが当たり前だという考えがある。富豪による多額の寄付以外にも、ラマダン明けの休暇前に会社が社員に一月分の給与を臨時支給するよう指導があったり、会社から貰えない部下に個人的にお金を渡したり、同僚の怪我、不幸の際に同僚が寄付したりする。
社会保障制度がこの国で浸透しない理由の一つは、こうした社会的な構造と文化によるもにが大きい。災害があれば税源で政府が救済する。国民健康保険の加入者の多くは貧しいという理由で税源で保険料を免除され、同様の理由で一千万世帯が生活保護を受けている。
富裕層がお金を払い、下層の人はそれを当然と考える。所属コミュニティが大事で、他のコミュニティや社会全体は二の次とする。誰も賛同してくれないが、私が今まで住んだ実感として一番近いのは、インドネシアは小さな政府を持ち、アメリカのような社会へ向かっている。
何か問題が発生すれば家族単位での防衛策が重要となり、社会全体で助けてくれるはずの公的制度は手薄となる。そういう社会へ向かうか、あるいは高度成長期の一時的な現象なのか。インドネシアは歴史の岐路にいる。