国際機関で資金繰りに奔走する人の話

先日、「国際機関で働く人には、従業員マインドと経営者マインドの人がいる」という話をした。思いのほか反響があったので、生々しい例を一つ紹介したい。私の周辺で最近起こっていることである。

「どのような仕事をしているのですか?」

もちろん、社会保障の専門的な話を聞きたそうな人にはインドネシアの社会保障の話をする。ただ、もっと一般的な国際機関での話に興味がある人の方が多い。私はこう聞かれたとき、いつも同じように答える。

「零細企業の経営者のように、事業運営をしながら資金繰りと戦う日々です。」

昨年は、インドネシア、ミャンマーの二か国で常勤職員10人、委託契約20人程のチームで活動していた。事業規模は二か国5案件で、年間予算約1億円。ミャンマーは情勢不安で資金計画が立たず、事業を閉じた。職員には相当前から見通しを伝えていたのもあり、ほどなくして再就職先が見つかった。国際機関とは言え、ILOでは雇止めや解雇などは容易にすることができない。そのため、事業終了時や次の就職先が決まって辞職する場合など、人員を減らすには人事計画が大切になる。残念ながら、ILOの組織体制では、私のようなプログラムマネージャーがこれを一手に担わなければならない。人事担当は手続きだけを行う。

インドネシア事業は、短期的な資金繰りに直面した。あてにしていた過年度予算の繰り越し分の振込みが、半年後ろ倒しになる。これが年明けに判明した。私と事務員の契約は12月まで予算確保していた中、もう一人の職員の給与については、繰り越し予算から支払う計画だった。しかし、資金繰りの問題で、職員の給与を払うことが難しくなった。何とかかき集めて、私と事務員の二名の給与分を確保するのが精いっぱいだった。

秋頃に現金が振り込まれるまでの「つなぎ融資」を別事業の担当と交渉し、頭を下げてお願いしたり、各方面で資金繰りに奔走する中、今月、別のチームに引き取ってもらう目途が立った。これにより、職員は仕事を失うことなく、私のチームは一人分の給与予算を浮かすことが可能となり、追加の活動費を捻出した。それでも、事務所の経費(家賃、光熱費等)を支払った後に残る活動費は100万円程度。これが1月から9月ころまでに私たちが自由に使えるお金である。

今日時点で私と事務員の2人体制。それでも、この人員と予算規模で、計画されているアウトプット(調査・研究・政策議論への参加等)を出さなければならない。年金制度改革、雇用保険制度改革、産休・育休制度新設、大学連携、論文執筆等々、色々ある。事務員は事業運営に関与しないので、基本的に資金調達、交渉、財務、人事、調達、アポ取り、専門分野のプレゼンなど、私が担う。

最初に着手したことは、AIで代替できる部分は人に契約を出すのではなく、AIに契約を出すことにした。具体的には翻訳作業に数百万円費やしていたところを、DEEPLのサブスクリプションに切り替えた。英文校閲も外注していたものを、TRINKAに置き換えた。これによって数百万円の支出を5万円程度に圧縮した。

また、経費で落とすには信頼しきれていなかったChatGPT4.0のサブスクリプションを私費で支出している。こちらは使い方を模索中。専門的な内容のペーパーを書いた後、広報記事に編集し直すドラフト作業。私が音声入力した乱文を校閲してきれいな書き言葉にドラフトしてもらう作業。企画書の内容からイケている新規事業名を考えるブレインストーミング。人件費を増やさずに、ChatGPTが自分のアシスタントになってくれないか。模索中である。

振り返ってみると、昨年初めには約1億円の事業規模で、30人の所帯だったのが考えられない。多くの人員を削りながらも、私は事業を継続しなければならない立場にいる。そのため、資金繰りの見通しが立たないときは、早めに手を打って、チームを縮小してでもアウトプットを出し続ける体制を構築しなければならない。そうすることで、時間稼ぎと同時に新しい企画のピッチをする機会が訪れる。マーケットから退場しないこと。これは常に心掛けていることだ。

秋頃に大きな振込みが一件あり、資金繰りが改善する見込み。それでも、2025年1月以降の資金流入予定は現状ゼロ。事業継続のために各所で新規事業の企画・交渉をしている最中。

多くの同僚が一つの事業を担当し、その事業が終わったら別のポストに応募し、去っていく。私のように5つの事業を同時に実施し、並行して新規事業も立ち上げ、公募ポストに応募した経験をほとんど持たない人は少ない。昔から株式投資の感覚でポートフォリオを考える癖がある。私の感覚では、一つの巨大な事業より、複数の小規模事業の方がリスク分散できて資金繰りが安定する。

国際機関の職員のキャリアは十人十色。私のような働き方はおそらく稀なので、あまり参考にならないと思う。私が言えることは、こうやって私は8年間ILOで働いてきたということ。