雨上がりの青い空

今日は朝から雨。いつぶりだろうか。窓の外から聞こえる雨音で目を覚ますのは。五時半か六時には自然と目が覚め、七時には会社にいる生活を始めて久しい。それでも、五時過ぎに出社していたバンコクでの暮らしと比べれば、かなり余裕がある一日の始まりだ。

そう遠い記憶に微睡んでいると、Googleカレンダーが「Bappenasとの会議が九時にある」と忠告してくる。Bappenasのビルは一等地にあり、200メートルほど先にSetiabudi Oneという飲食店が入居する建物がある。インドネシアの人々は雨が降ると遅刻の理由にして遅れてくるが、私には日本人の五分前集合の習慣が染みついている。通勤ラッシュが始まる前の七時に自宅を出れば、雨が降っていてもタクシーを拾うことができる。Setiabudi Oneにお気に入りのインドネシアのカフェチェーン「Anomali Coffee」が入っていて、Bappenasで会議の時は決まってそこでクロワッサンとコーヒーを飲む。七時半から八時半までそこで仕事をして、徒歩でBappenasへ向かう。すっかりそれが行動パターンとなっている。

午後の二時に、カンボジア事務所の社会保障プログラムマネージャーとカウィサリ・コーヒーで会う。マナドへダイビングへ行く道すがら、ジャカルタでトランジットして会いにきてくれた。彼も4年カンボジアで勤務をしていて、社会保障の適用数を百万人ほど伸ばすことができ、自分で決めていた目標をある程度達成したようだ。これから何を目標にやっていけばよいのか。モチベーションの置き場所はどこか。今後のキャリアはどうするか。共有できる悩みは多い。

UNICEFやUNDPはプロジェクトごとの予算割が曖昧で、本部や上流にいったん予算を吸い上げて(彼らはこれをプログラムと呼ぶ)、プロジェクトの色がついていない形で現場のスタッフへ給与を支払う。つまり、現場の職員には、自分の給与がどこから出ていて、どのように契約が出ているのかは目に見えない。一方、古い体質のILOは、ある意味馬鹿正直に、プロジェクトごとの予算管理を徹底していて、人事権も執行権も多くがプロジェクトマネージャーにゆだねられている。よく言えば、現場の裁量が極めて強い。悪く言えば、現場が必要とする予算は現場が自前で調達しなければならなず、本部や事務所から予算配賦はない。隣のプロジェクトが終わればそこのスタッフの雇用は終了し、別のプロジェクトが始まれば新しいスタッフが公募される。予算の貸し借りができないため、数か月後にドナーから予算が振り込まれるとわかっていても、キャッシュフローの問題で契約を切らなければいけないこともある。予算の貸し借りができれば、別のプロジェクト予算のために滞留している現金を使って、数か月先までいったん給与を建て替えることができる。しかし、ILOではそれができない。私は現場のマネージャーで、自分の役割を「零細企業の社長」と形容して人に説明している。つまり、事業の実施も、資金調達も、人事も、調達も、経理も、総務もすべて自分で行う。

目の前の彼も同じような仕事をしていて、東南アジア地域のILOの社会保障プログラムマネージャーの中では、私と彼が一番多くのプロジェクト、予算、人員を抱えてやっている。だから、組織の改善点について思うことや、見ている景色が似ている。

インドネシアに住んで2年。仕事をして6年。雇用保険が成立し、一千万人以上が加入。年金改革や出産手当金についてもILOの提言をまとめ、我々部外者ができることはほとんどやり切った感覚がある。現場の裁量が良くも悪くもある職場環境にあって、半ば冗談でマネージャー同志で約束する。

「俺がインドネシアへ。お前がカンボジアへ。来年になったら頃合いを見て、勤務地を交換しよう。」

はて、どうやってやるか。現場から組織のあるべき姿を実現するには、自分の手の届く範囲内で一歩ずつ実現していくことが大切なのかもしれない。来年はプノンペンにいるのだろうか。何となく出来てしまいそうな気がするのが、ある意味ILOの現場の良いところなのかもしれない。

ティラミス代とコーヒー代を置いて、コロニアル様式の洒落たカフェから出る。