仕事の仕方の違い-国連改革の本質は、個人の意識改革?
国際労働機関(ILO)で多国籍の環境で政策文書などを書く作業を仕事としていると、世の中にはこれほどまでに違う仕事の仕方があるのかと驚くことが多い。今日はその一例を紹介したい。
たとえば、開発途上国の障害者支援の事例を纏める文書を作って出版することをイメージしてみてほしい。
まず、外部のコンサルタントを雇ってGoogleで文献を集めてもらい、ドラフトを作成してもらう。それに対してコメントや修正依頼を行い、コンサルタントが更に修正を行い、第二稿が出来上がる。第二稿が担当者にとってある程度満足いくものであれば、社内の関係者へコメント依頼をする。コメント依頼はたいてい返事が無いのが一般的だ。なぜか?それはコメントを依頼された側にとって優先度の低い仕事だからだ。この辺りはあからさまに後回しとされるし、返事があれば良い方で、何ヶ月も返事が無いことも普通だ。コメントが返ってきたらそれらをコンサルタントへ返して、第三稿が出来上がる。そのあたりで契約上の時間切れが来るので、文書の仕上げは全て担当者が引き取る。
補足
ここまでご覧になって分かると思うが、日本の組織人のように、組織の仕事に対して責任を持つという感覚はほとんど無い。あくまで、個人にとってメリットのある仕事かどうかで仕事をしている人が多い。私個人としてはここに問題があると思っているが、一応フォローすると、国連職員は終身雇用ではないため、短期の契約期間内に契約で決められた事項を達成することが個人の評価に繋がる。そのため、自分の契約に明記されていない組織の仕事は優先度が下がるのは当然でもある。
だいたいこういう流れで文書がドラフトされる。ここまでも問題が多いが、ここからが問題。
コンサルタントの契約期間中に最終ドラフトが完成することは極めて少ない。なぜか?前述のとおり、社内の関係者が自分の優先度に応じてバラバラの時期にコメントを出してくるからだ。
これが最終ドラフトだと思って出版するための最終準備を行うと、たいてい痛い目にあう。表やグラフを作りこんで、フォントやフォーマットを1ミリ単位で全てきれいに揃えたあとで、天地をひっくり返すような根本的な修正依頼や、ファイルへ直接修正や追記を複数の関係者が行うことも多い。そうなると、フォーマットは最初からやり直し。文書の規模にもよるが、フォーマット作業というのは1回あたり数週間神経をすり減らして行う緻密な作業であって、これを複数回やるというのは精神的にかなりしんどい作業である。
日本の組織であれば外注している場合、外注先からコメントを求められれば最優先で返事をして、契約期間内に仕事を完成させる。そして、期限内にコメントしない内部関係者がいれば、彼らのコメントは無視して期限どおりに出版する。仕事を進めるためには、遅い人を待ってはいられない。
しかし、それがここでは一般的ではない。コメントを延々と待ち続けるだけでなく、どんな些細なコメントでもほぼ100%反映するまで修正作業を止めることはない。
こうした作業の結果、極めてテクニカルで詳細な文書ができあがる。これがある意味、ILOの政策担当部署の真骨頂であって、国連ファミリーの中でも「専門機関」のカテゴリに括られる所以なのだろう。
あとがき
仕事の仕方の違いは、色々な組織で働いてこそ感じることができるもの。別の組織へ移ったときに、他の組織でうまくいったこと、うまくいかなかったことをいかして改革していくことが大切。それが良きマネージャーになるための学びなのだろうと思う。
私自身、ヨーロッパの公的機関の組織文化の仕事のスタイルを学んでいる過程であり、自分から見える範囲の描写となった。非効率に感じることも多いのは事実だが、仕事のスタイルの違いによるところが大きいとも感じる。
個人的な見解を述べるとすれば、マクロ的な国連改革の必要性が求められている昨今、もっともっとミクロなレベルの改革の方が重要だと感じる。スタッフ個人の意識や働き方を変え、効率的に(個人ではなく)組織の目標を達成する組織作りこそが国連改革の本質だと感じる。
その意味で、日本人のもって生まれた周りへの気配り、調和、組織人としての能力は、間違いなく世界トップレベルのものであり、国連改革の本質を担えるのは日本人しかいないと感じる。
私自身、ナショナリストではないが(十勝人としてのアイデンティティは強いが)、日々の仕事で感じることが多いので備忘録として記しておきたい。