インドネシア大統領選と社会保障
インドネシアの大統領選が近いので、社会保障政策に政治のノイズが入り始める。選挙前は税支出で金を配るためのツールとして社会保障支出が増えるというのは、万国共通の開発学教科書1ページ目のセオリー。
その渦中で政策議論に参加するのは中々骨が折れる。政府だけと仕事をする他の国際機関と異なり、労働組合、経済界とも話す。社会保障は負担の分け合いだから、各方面から提言に対して批判を受け、それを毎度ディフェンスする。ああ言えばこういうの能力がつく。
政治のノイズというのは必ずしも悪いことではない。政府支出が増えることは、滅多にないチャンスと捉える。あとは技術的にどういう制度設計をするのがベストか提言をねじ込んでいくことが大切。
昨年末に国会に提出され、数か月前に紛糾した法案がある。maternal and child care法案。次期大統領候補が提出した法案で、女性保護と子供保護を謳ったもの。選挙にピッタリのテーマ。
法案の本丸は法定産前産後休暇を3か月から6か月前へ、Paternity leaveを3日から40日へと延ばすこと。一見すると良い法案に見え、世間体は極めて良い。
ただ、インドネシアではこれが社会保険化されておらず、休暇中の賃金全額を使用者が負担しなければならない。当然使用者団体は批判。女性が雇用されなくなることへの懸念や採用時の妊娠テストの実施リスクが高まることなど、労働者側からも批判が起きた。
7月上旬に三者会合を実施し、議案を提出した政党も招待し、パネルディスカッションを主催した。どうしてもこういう会合は政治的な主張の応酬となり、公衆の面前では良い顔を取り繕おうとするインドネシア人特有の気質も相まり、あまり建設的な議論はできなかった。
ILO側の提言として私からお話ししたのは次のとおり。国際基準で183号条約というのがあって、最低14週(産後8週は義務で6週は前後自由)が推奨されていること。6か月に産休を延長することは、基準に照らし合わせれば問題ないので、政労使で話し合って決める必要があること。これを基本として議論を進めた。実は、私たちとしては、法案が提出されることを知らずに、調査研究は先行投資のつもりで進めていた。インドネシア大学人口問題研究所と共同で、産前産後休暇の実態調査を実施。サンプリング調査を経て確認できたのは、現行法通り3ヶ月間満期で全額賃金を受け取っている労働者は少ないこと。
社会保障のない仕組みについては、労働法の下で使用者責任(Employers liability)でこうした賃金補填が行われる。短期的な給付制度(Short term benefit)でこういうことが多く、労災、産休手当、失業手当(退職金)が使用者責任となっている国が多い。
使用者責任の制度の問題点は、労働者保護が使用者のコンプライアンスによるという点。これはセオリーというか万国共通の事象であり、良い労働環境で働く労働者は保護され、中小企業や不安定な契約で働く労働者は給付を不当に受けられないということが起こる。政府のキャパシティが低い中低所得国では、使用者の不法行為の取り締まりが極めて困難であることが多い。先ほどの話に戻せば、インドネシア大学との共同調査研究の価値は、この定説を「インドネシアでも同じ状況ですよ」という数字を示したこと。会合でこれを示したうえで、産休を3か月から6か月に延ばすと更に受給する人の割合はが下がるという話をした。せっかく法案と政治の意思があるのであれば、社会保険化することで、使用者ではなく政府が責任をもって給付する仕組みへ変えるべきではないかという提言に帰結させた。それで、具体的にどうすべきか、という話になる。これも準備研究をすでに先行投資的に実施していて、アクチュアリーと政策オプションの数理計算の結果がある。たとえば、183号条約の基準に基づけば保険料は月給の0.5%くらいで、法案のとおりでいけば1.5%くらいになるけど、どっちが良いか選んでください。という話の進め方をする。
ちなみにベトナムは産前産後休暇は6カ月で賃金全額が補填される。インドネシアの法案との違いは、ベトナムの制度は社会保険で賄われる。使用者責任で賃金補填される場合は、使用者は若い女性を雇用するとコストが高くなるため、雇用したくなくなる。一方、社会保険の場合、使用者は保険料を毎月収めるだけなので、従業員の産休・賃金補填リスクを心配する必要はなくなる。また、使用者側のコストは、使用者責任の制度の場合は、女性を雇用した使用者のみが負担するのに対し、社会保険はすべての使用者・従業員が保険料の支払いを通じてシェアすることとなる。
たとえば、使用者責任下では、女性の多い縫製産業が多額の負担をして女性を雇用をしている一方で、男性の多い建設業の負担は少ない。他方、社会保険化すると、縫製産業の負担は減る一方、建設業の負担は増える。そのため、先ほどの話に戻ると、「あとは政労使の間で合意を探ってください」という話に帰結する。社会保険の支払い割合は、ILOの国際基準で大まかにしか決まっていない。労働者は保険料の半分以上を払わないことになっている。1:2にするのか1:1にするのかは、政労使で決めてもらう必要がある。
社会保険と使用者責任のどちらが国の経済に良いか、という質問も政府から出た。ベトナムとインドネシアの比較を使って話をした。インドネシアが3か月から6か月へ産休・賃金補填を倍増すると、縫製産業のコストは増えるため、インドネシアから撤退する理由が一つ増える。一方、ベトナムは社会保険料は他のセクターも負担しているので、縫製産業相対的にコストは低くなる。
政治がどの政策に関心を持つかは、わからない。そのため、調査研究・提言は前もって先行投資で進めていく。「優先順位が低いのになぜ今それをやっているのか?」と言われることが時々あるが、政治が関心を持ってから始めるのでは遅い。上記の産休制度・社会保険化のエビデンス・提言作成のために1年は要している。一方、法案が提出されて、政労使が慌てて議論を始め、「来週中に提言ください」と言われる。このタイムラインは私たちの仕事ではいつものことで、だから先を読んで準備を進めておく必要がある。上記の調査研究についても、先見の明でピンポイントで私が当てたわけではなく、大量に撒いてある種の一つから芽が出ただけだ。私の周りには、30-40本くらい未完の調査報告書・論文があり、これらをFinalizeすることができない自分の非力と、時間はなんぼあっても足りないことへの絶望感と日々対峙している。とはいえ、これらはいつ、芽が出るかわからない先行投資の産物で、風が吹いたときに、何食わぬ顔で1週間で差し出すためのものだ。
冒頭の話から相当脱線してしまった。社会保障の税支出が選挙前に増える話に関していえば、政府は企業勤務していた人ヘ税源で金を配っている。コロナで減った給与補填が名目だが、雇調金のように雇用を担保するしかけもない。税源を使っているので、再分配効果も疑問が残る。
効果の評価がなされないまま、進んでいる。他にも生活保護CCTの拡充やインフレ対応に補助金も増額に増額を重ねている。インドネシアは有事の際には国にお願いして事後的に補填してもらうというサイクルが根強い。社会保険を根付かせるための議論は、中々骨が折れる。