日本の満州統治とイギリスのインド統治

台湾統治で名を馳せた後藤新平は、日露戦争の前線で指揮を執った児玉元台湾総督へ戦後統治について具申した。イギリスが行ったインド統治を真似るべきだと。

イギリスは1600年に東インド会社を設立し、本国から銀を運び、胡椒や綿布を買い付けることからはじめた。その後、各地に商館を建設し、そこを拠点として要塞化を進め、域内で行政、司法、徴税を実施しはじめた。次第に銀で貿易代金を支払う必要がなくなり、インド国内で徴収した税金で取引を完結することが可能となった。そして拠点の拡大に伴い、インド全土へ支配権を拡大した。東インド会社は19世紀なかばに解散するが、既に実効支配を確立していたため、企業は消えても統治機構は残ったため、イギリスがインドそのものを植民地支配することとなった。

東インド会社にならった南満州鉄道株式会社は、鉄道事業に附帯するあらゆる事業を実施することができる国策複合体だった。附帯事業は、鉱業、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地における土地および家屋の経営、その他政府の許可を受ける営業とされ、多岐に及んだ。

また、住民への課税を含む行政権を持つ点で民間企業と決定的に異なる。鉄道と附帯事業の用地内では営利・公共施設(教育、衛生、図書館、製鉄所など)の整備を実施でき、用地内の住民から手数料の名目で徴税ができた。住民は満月へ納税すれば清へ納税する必要はなかった。

この付属地の支配権という排他的行政権は、ロシアが東清鉄道を敷く際に清に認めさせたものだった。ロシアは「鉄道建設経営と保護に必要な土地付属地」を拡大解釈し、燃料調達のための炭鉱、枕木調達のための森林、砂利採取のための河川、駅周辺の商工業地を占領していた。たとえば、ハルピン全域がロシアの支配下だった。

満鉄はロシアから東清鉄道を引き継ぎ、これらの広大な付属地を満州に手に入れた。


参照:山岡淳一郎. 2007. 後藤新平日本の羅針盤となった男.