スカルノハッタ国際空港の保安検査場で目の前に置かれた箱の山
国内線の空港荷物検査を待っていた時のこと。ちょうど目の前の人がパソコンや携帯電話をカバンから出していた。後ろで待っていて自分の番が回ってきたので、残り2つあったプラスチックの箱の中に荷物と携帯電話をそれぞれ入れて前へ進もうと思った。しかし、奥からやってきた空港の検査員は高く積み上げられた箱を両手に抱え、私の目の前におろした。
私は苦笑いをしながら、検査員が目の前に置いた箱の山を抱え上げ、後ろに移した。検査員は空いているスペースにただ箱の山を置いただけのつもりだろうが、これによって私は自分の箱を前へ滑らすことができなくなった。だから私に残された選択肢は自分の2つの箱を持ちあげて前へ進むか、この高く積み上げられた箱の山を抱えて後ろに移すかだった。結局、私は箱を持って後ろの山に積み上げることにした。
世界各国の空港で荷物検査をしてきたが、インドネシア以外でこういうことは起こったことはない。ポイントは、ここの空港検査員には全く悪気がないということだ。ただ単に箱の山を何も考えずに私の目の前に置いたのだ。それが私の進路の妨げになってるとは全く考えもせず、気付くこともなかった。私の前にいた知人と顔を見合わせ、肩をすくめた。
抱え上げた箱を後ろに置いた時、後ろに並んでいたヒジャブを被ったインドネシア人の女性は「ありがとう」というような仕草を見せた。その女性もまた、私がなぜ大きな箱の山を抱えて移動させるという検査員がやるような仕事をしているのか、全く理解ができない様子だった。むしろ、「自分のためにわざわざ箱をを取ってくれてありがとう」という様子で会釈をしてきた。
ちなみに、当然、箱を私の前に置いて去って行った検査員は、私がその箱の山を迷惑そうに抱え上げて、後ろに移動させる作業をしていることに気づきもしない。たとえ気づいていたとしても何も感じないはずだ。
この国でこういうことは毎日のように起きる。これらは、良い意味でも悪い意味でも、鈍感さ、察しの悪さ、気付かなさ、配慮のなさ、悪気の無さというインドネシア人の性質がよく表れた事例だ。
もう少し掘り下げてみたい。この事例を、日々の業務改善の観点から考えるのであれば、非常に難しい対応となる。この検査員は全く悪気がない。仮に、私に意地悪をしようと思ったり、サボるという感情が少しでもあったとすれば、それを上司が注意することによって反省、謝罪、改善が見込めるだろう。しかし、この場面で上司が彼に何かを言ったところで、彼は「なぜ私はそんなことを言われないといけないのか」と感じるだろう。悪意も悪気もないために、何を指摘されているのかすら、全く理解できないわけだ。むしろ、私のために彼は「大きな箱の山を持ってきてあげた」と主張するはずだ。「せっかくやってあげたのに、なぜ怒られなければいけないのか」という反応が返ってくる。仕事上のやりとりで、私はこうした体験を何度もした。
インドネシアで日本式の改善を職場や社会で促すことは極めて難しいと感じる。その理由の根本的な要素が今回の事例に詰まっている。この国の人は察しの悪さや気づかなさにおいては世界一である。西洋人の知人に言わせれば、「悪意がある行いよりも、悪意がなく同じ結果を招く方が、さらに悪い」ということだ。つまり、受け取り手は騙されたり、悪意ある行動を予期することもなく、最悪な結果に直面するわけだ。そして、そこに改善の余地はなく、指摘したところで攻撃的に反論されるわけである。
また、指摘を受け入れて、改善する姿勢をとることのできるインドネシア人も少ない。多くの場合は、「怒られたけど、気にしないでおこう」と精神安定のために逃避行動をとるか、数えきれないほどの言い訳を並べて自分の非を認めることはない。