無いものねだり

無いものねだりだと感じることが増えてきた。世間一般の人全員がないものねだりなのかは、他人になったことがないのでわからないが、少なくとも自分はそんな気がする。

2009年にJICAへ入社することを決め、2010年に東京で働き始めたとき、最初のないものねだりがはじまった。

もしJICAへ入社していなかったら、自分は開発途上国の現場へすぐに行けていたかもしれない。

2012年の人事異動で海外赴任できないとわかったとき、「ほらやっぱり、入社していなかったら、今頃途上国にいたのに」と思ったものだ。

そして、2014年。三部署目で念願の海外赴任が待っていたが、思いもよらぬ先進国事務所。

もしJICAへ入っていなかったら、途上国へ行くチャンスはもっと大きかったかもしれない。

さらに、2016年。JICAを辞めてILOへ移ったものの、途上国へ行く機会はほとんどなさそうだ。

開発途上国のプロフェッショナルの道へ足を踏み入れて以来、開発途上国に住むきっかけを得られずにいる。

この状況が、例の「たら」「れば」を考えさせる原因であるわけだ。

色々考えたところで「たら」「れば」は実現しないが、それでも考えてしまうのが、人間の悲しい性といったところか。

ここ最近の結論は、無いものねだり。結局どんな状況になったとしても、飽くなき欲望や目標は満たされないし、新しい「たら」「れば」が生まれるだけの事。

知人が東南アジアで仕事を始めたことがとてもうらやましく思うこともあるけれど、結局、それはないものねだりをしているだけであって、別の経験や機会を得られている自分から目を背けていることなのだろう。

無いものねだりが無くなることは、目標を失うこと。生きている限り、無いものねだりは一生続くだろう。ただ、そのあと、自分の今ある状況をプラスに捉えて、今無いものへ向けて向かっていけるか。そこにかかっているのだと思う。