インドネシア独立記念日に街を歩き、79年前の日本を想う

インドネシアは1945年8月17日に独立。今年で79回目を迎える独立記念日は、毎年の古都ながら全国各地でお祭り騒ぎとなっている。商業施設、アパート、コミュニティなど、あらゆるところに国旗が掲げられ、会社や路上にも紅白の衣服をまとった人が練り歩いている。

日本で国旗を掲げて、建国記念日を全国各地で祝うことを想像して欲しい。軍国主義者や右翼などと、多くの日本人は揶揄するだろう。しかし、私が駐在してきた国を見れば、世界のスタンダードはむしろ独立や建国を祝うのは当たり前のこと。

もの知らずだった小中学生の頃、北教組に思想を支配されていた北海道の少年少女は、国旗や国歌が悪いものだと教えられて育てられた。国歌斉唱が鳴り響くと、教師が生徒に着席を促し、教師が国旗を踏む。外には右翼の街宣車がきて、生徒に国旗を踏んだ教師を密告させる。異常な環境だった。

社会に出て、世界で外国人として日本人として働くようになって、日本のそういった対応が特殊だということに気づいた。どの国でも、どの社会でも、建国記念日は盛大に祝われ、国旗や国歌と触れることができる。

今朝、ジャカルタの街を歩いた。中央ジャカルタのメンテン地区には、今もなお外交使節団の公邸や歴史的な建造物が残っている。その一角に79年前にインドネシアの独立宣言が書かれた場所がある。それは大日本帝国海軍のジャカルタ駐在武官だった前田少将の公邸である。

インドネシアの独立に対して日本が果たした役割を知る日本人は少ない。インドネシア人の多くも、それを知らない。

日本はスカルノに、1945年9月にインドネシアを独立させる約束をしていた。しかし、8月15日に日本が降伏したことで、日本は約束を果たす立場ではなくなり、戦勝国による国連軍がインドネシアの再占領を画策していた。8月16日未明、一刻も早い独立を訴える青年たちがスカルノとハッタを誘拐し、ジャカルタ郊外のレンガスデンクロクというところに連れて行った。

スバルジョはスカルノとハッタを保護する約束を前田少将から取り付け、青年たちを説き伏せ、8月16日午後10時に前田邸へ二人を連れてきた。既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した。17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1,000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し、インドネシア共和国が成立した。

前田少将はアジア開放とインドネシアの独立に関してスカルノと意気投合しており、インドネシア人による軍隊である郷土防衛義勇軍(PETA)の創設や訓練を施した。彼らがのちの独立戦争を戦うことになる。

インドネシア人は上陸してくるイギリス軍と戦うために日本軍に武器の引き渡しを各地で求めた。しかし、国連軍によってインドネシア人への武器の引き渡しを禁じられていた日本軍は、無抵抗にインドネシア人に殺害される部隊も多数出た。それでも、国連軍の指示に反してインドネシア人へ武器を提供した部隊があり、日本へ帰国せずに独立戦争を戦った日本兵は数千人いた。

インドネシア独立に貢献した者に与えられる勲章を受け取った前田少将の他、多くの戦死した日本兵がジャカルタの墓地に眠る。

独立宣言文起草記念博物館に掲げられた解説

August 16th 1945, after the long trip from Rengasdengklok, Bung Karno, Bung Hatta and Ahmad Subardjo arrived on the house of Rear Admiral Tadashi Maeda at 10 PM. After a warm greeting from the young Admiral, the guest then explained about their intention to organize a meeting in preparation for the Independence of Indonesia.

1945年8月16日、レンガスデンクロクからの長旅の後、スカルノ、ハッタ、スバルジョは、午後10時に前田精少将の公邸に到着した。前田の温かい挨拶の後、スカルノたちはインドネシアの独立に向けた会合を開く意向を説明した。

Maeda then explained that they had to report to the Gunseikan (Japanese Military Government) first before organizing such meeting. At the Gunseikan office, they met with Major General Nishimura Otoshi, which then explained that Japan could not be a part of Indonesian Independence because maintaining Status Quo of Indonesia was a part of term of the Japanese surrender to the Allied Forces, The General also forbade the forthcoming meeting.

前田は、そのような会合を開く前に、まず軍政監部に報告しなければならないと説明した。軍政監部で彼らは軍政監部総務部長の西村乙嗣少将に会い、インドネシアの現状維持は連合軍に対する日本の降伏条件の一部であったため、日本はインドネシアの独立に関与できないと説明した。

Back at Maeda’s house at 2.30 AM, still disappointed from the Generals response, they decided to Proclaim Indonesian Independence right away. Maeda then said that he didn’t want to interfere and went to his room upstairs.

午前2時半に前田の家に戻ったが、将軍たちの対応に失望したまま、彼らはすぐにインドネシア独立を宣言することにした。前田は「邪魔はしたくない」と言って、2階の自分の部屋に行った。

At 3.00 AM, August 17th 1945, Bung Karno, Bung Hatta and Ahmad Subardjo sat at the long dining table, and started making the proclamation text. Bung Karno wrote the draft, the others conveyed their ideas verbally.

1945年8月17日午前3時、スカルノ、ハッタ、スバルジョは食卓につき、宣言文を作り始めた。スカルノが草稿を書き、他の者は口頭で意見を伝えた。

After the text entitled “Proclamation”, they agreed to put in the word, “We the People of Indonesia Hereby declare the independence of Indonesia”. Bung Hatta added the second sentence, a statement regarding the transfer of power. At last, the proclamation concept was finalized with some scribbling marking the ideas exchange between the conceptors.

宣言と題された文章の後、彼らは「われらインドネシア人はここにインドネシアの独立を宣言する」という言葉を入れることに同意した。ハッタは2番目の文章、権力の移譲に関する声明を付け加えた。最後に、宣言のコンセプトは、コンセプター間のアイデアの交換を示すいくつかの走り書きで最終決定された。

Sukarno, Hatta, and Subardjo then headed to the main hall where everyone’s waiting.

スカルノ、ハッタ、スバルジョは、皆が待つ大広間に向かった。

Carefully and repeatedly, Bung Karno read the text to the audience. Then he asked the audience wether they agree or not with the text. Bung Hatta recalled, the audience delivered an enthusiastic and thunderous agreement. Then Bung Karno repeated the question, “Brothers! Do you really agree?” and they delivered the very same thunderous yes.

スカルノは何度も丁寧に、観客に文章を読み聞かせた。そして、その文章に賛成か反対かを聴衆に問うた。ハッタは、聴衆が熱狂的で雷鳴のような同意を示したことを思い出した。そしてスカルノは「兄弟よ!本当に同意するか」と質問を繰り返した。

Then rose disagreement over who should sign the manuscript. Finally Soekarni moved forward and said loudly: “Not everyone of us should sign the manuscript, only two people on the name of the people of Indonesia, it’s Soekarno and Hatta”. The suggestion was accepted by the audience with applaus.

そして、誰が原稿にサインするべきかについて意見の相違が生じた。最後にスカルニが前に出て大声で言った。「私たち全員が署名するのではなく、インドネシア国民の名において、スカルノとハッタの2人だけが署名すべきです」。この提案は、拍手とともに聴衆に受け入れられた。

Then Bung Karno ordered Sayuti Melik to type the manuscript.

そしてスカルノはサユティ・メリクに原稿をタイプするよう命じた。

After the audience agreed with the concept drafted by Bung Karno, Bung Hatta, and Ahmad Subardjo, Bung Karno ordered Sayuti Melik to type the Proclamation Manuscript. Accompanied by BM Diah, he typed in the room right by the kitchen.

スカルノ、ハッタ、スバルジョが起草したコンセプトに聴衆が同意した後、スカルノはサユティ・メリクに宣言原稿をタイプするよう命じた。ディアに連れられ、彼は台所のすぐそばの部屋でタイプした。

Sayuti Melik changed three words; “tempoh” to “tempo”, “the representative of Indonesia” to “In The Name of the People of Indonesia”, he also changed the date format of the text.

サユティ・メリクは3つの単語を変更した。「tempoh 」を 「tempo 」に、「the representative of Indonesia 」を 「In The Name of People of Indonesia 」に、彼はまたテキストの日付フォーマットを変更した。

After he’s done with the typing, the text was signed by Bung Karno and Bung Hatta on the piano by the stairs.

タイピングが終わると、ブン・カルノとブン・ハッタが階段脇のピアノの上でサインをした。