イスラム教と仏教の祝祭の違い
イスラム教と仏教の祝祭の違いを肌で感じる。バンコクの水かけ祭りは街をあげてにぎやかな雰囲気で完全に俗世化した行事となっている一方、ジャカルタのイードは普段は目につかないねずみや猫が多く感じるほど人がいないゴーストタウンとなっている。これは家族や田舎との繋がりなど、色々な背景に起因しそうだ。
人がいないといっても、ジャカルタ中心部に住んでいる人はいる。モスクからは相変わらず定刻を告げるスピーカーの爆音が流れているし、バイクタクシーで移動する人もちらほらいる。
断食最終日の昨夜、通りはさぞかし賑やかなお祭り騒ぎだろうと思った。しかし、手打ち花火を大通りでぶっ放す子供や、花火を飛ばしながら走るスクーターがいる程度。通りに設けられた仮設の舞台からは爆音の音楽が流れてくるだけで、地域住民が団結して催しをしている雰囲気はない。どこか、一部の金持ちが資金提供はするが、人々の団結力を社会全体として感じない。手放しで見ず知らずの人と祭りを盛り上げ楽しむ東南アジア大陸の人々とは全く異なる。ジャカルタの祝祭はどこかすべてが地味で、盛り上がりや団結に欠ける。それが宗教的には正しいのかもしれないし、真実はわからない。
ただ、宗教行事が俗世化していないかと言えば、そういうことでもなさそうだ。先日のタクシー運転手が嘆いたように、イード休暇中に着るための新品の洋服を爆買いするために、全国からジャカルタの百貨店や市場に人々が大挙した。
いずれにせよ、祝祭や地域の祭りなどに強い関心もない私でさえ、ジャカルタの「通常営業」な雰囲気には拍子抜けしている。
興味深いのは、働いている人は確実にいるということ。大型ショッピングモールに出店する店舗は通常通り営業しているし、スターバックスなどの外資店舗も通常通り。出前を届ける
バイクタクシーも動いている。早朝から不通だったインターネットプロバイダも正午頃には復旧させた。鉄道も間引きかもしれないが動いている。
私の週末の日課は、歩くこと。ジャカルタ市内の隅々まで文字通り歩いている。イスラム教徒の作った地区はバイク一台が通れる程度の入り組んだ迷路構造になっているため、グーグルマップを片手に歩く。発見も多い。東京丸の内一丁目のど真ん中にも昔は平屋に人は住んでいて、ジャカルタのど真ん中は今まさにそのような雰囲気にある。インドネシア人の同僚が「スラム」と形容して近づかない地域の裏手には、首を垂直にしなければ見上げられないほどの高層ビルが何棟も建設中である。
あと何十年もすれば、ジャカルタも東京のようになる。中心部からは住宅が消え、大型連休ではなくとも週末になればゴーストタウンと化すだろう。今日のジャカルタは、人々の活気が昨日まではそこにあった雰囲気を残している。活気が失われた日常ではなく、日常から活気が失われた束の間の祝日。写真や記録には残らない貴重な歴史の一部を体験した気がする。