日本の台湾における開発政策
東大で教えていたスコットランド人バルトンを台湾へ連れてきた後藤新平は、バルトンの都市計画に基づき、1899年4月、東京に先んじて台北で下水道整備を開始した。
後藤新平は都市計画を進めるために城壁を撤去し、3車線道路に変え、撤去した石を下水道、台北駅、台湾銀行、台北監獄、台北賓館の建築資材として再利用した。
台湾で後藤新平が行った土地改革も鮮やかだ。10年かけて測量を行い、地図を作成。清時代には地主と開墾した小作人が二重の土地所有権を持ったが、公債で資金を集めて地主所有権を買い取る。所有権が明確になり、隠し田も炙り出される。小作が地主へ支払っていた分が徴税へ回る。
台湾の発展を支えた製糖業も後藤新平が考えたものだ。後藤は米国から新渡戸稲造を呼び寄せ、着任早々ジャワ島へ製糖業視察に行かせる。もう少し調べてから報告書を書きたい新渡戸に、「台湾のことを知ると思い切りの良い策がでなくなるから今すぐ書け」と伝えた。その後、最先端の技術を導入し、製糖会社台糖を設立した。
大衆との対話を重視した姿勢
明治時代、民衆はコレラに関する知識を持たず、治療を試みた医師を「肝取り」の流言で暴行した。政府の防疫策へ反発し、暴動が起きた。インドネシアで雇用保険導入を支援したとき労組からILO本部へ抗議文が届いたのを思い出す。解雇手当の権利を私が奪おうとしていると。
策を立てただけでは社会は変わらない。民衆にその意義を知らせ、教えなければ絵に描いた餅になる。後藤新平の一節だ。国際機関や研究者が新興国の公共政策に携わることは多々あるものの、民衆と対話する機会を無数に持つのはILO職員の特異な仕事なのかもしれない。
阿片規制を実施した際の歴史的背景
アヘン戦争で清を侵略した英国を念頭に置いた幕末の儒学者横井小楠の一節がある。西洋の資本主義は自由貿易を拒絶する国に対し、戦争を仕掛けた。その際、理由付けのために国際法を使った。こうした西洋の姿勢は、150年たった今もたいして変わらない。
阿片の規制をした清を英国が攻めて香港を奪い、大陸への密輸拠点とし、第二次戦争で合法化させた。オランダ領東インドへも相当量の阿片が輸出されていたようだ。
阿片を取り次いだ貿易会社は現存するシンガポール上場企業「ジャーディン・マセソン」。この会社を知らなかったとしても、坂本龍馬を支援していたグラバー商会は聞いたことがあるだろう。グラバー商会はジャーディン・マセソンの日本における代理店として作った会社だ。現代に置き換えて考えれば、商社の現地法人といったところだ。
明治維新は美しく描かれることが多いが、英国がジャーディン・マセソンを経由して阿片を大陸で売って稼いだ資金、グラバー商会、坂本龍馬、明治維新が一本の線で繋がる。英国が薩長を支援し、フランスが政府(徳川幕府)を支援し、英国とフランスによる勢力争いが行われたのが明治維新という見方もできるわけだ。
後藤新平が行った阿片規制
清統治下の台湾にはインドネシア語派先住民45万人、大陸移民255万人が居住し、数十万人が阿片吸引者だった。清統治政府の財政収入の半分を担っていた。日本の台湾総督府は常用者の反乱を避けるため、中毒者へのみ医師の処方を認めることで、常用者数の漸減をはかった。
台湾の阿片吸引特許者数の推移は次のとおり。1900年16.9万人、1910年9.9万人、1920年4.8万人、1930年2.3万人。著者は後藤新平が禁止ではなく漸禁を選択したことに疑問を呈しているが、開発効果の観点からは大成功の推移だろう。この間、専売特許により財源確保もできたことも大きい。
参照:山岡淳一郎. 2007. 後藤新平日本の羅針盤となった男.