ウソの定義-インドネシア人はなぜ約束を破り、言い訳をするのか?

インドネシア人と働いた経験のある外国の知人と話していて面白い発見があった。インドネシア人に共通することは、言い訳が多いということだ。これはインドネシア人の典型的な商習慣で、私の経験からも話してみたい。よく言われることだが、インドネシア人は断ることができない。あるいは、断らない意思決定をしているか、本当に自分が約束を守ることができると楽観視しているか。いずれにせよ、結果は同じで、何を頼んでも、必ず「わかった」と返事が返ってくる。断らないことが、文化が根付いているからだ。つまり、彼らにとって何かを依頼された時、「知っている。できる。」と必ず答える。しかし、実際に約束が履行されないことが多い。

断食月の話が興味深い。「断食中は嘘をついてはいけない。嘘は罪にあたる。」という。神様との約束で、嘘をつくと罪になるらしい。欧州出身の知人と私は意地悪にこう聞いた。

「できると返事をして、約束したにも関わらず、時間通りに成果が上がってこないのがインドネシアでは日常だけれど、これは嘘じゃないの?」

インドネシア人の知人は、「それは嘘ではなく、やろうと思ったけど何らかの理由でできなかったのだろう。」と答える。

私は更にに詰める。

「結果だけ見ればできなかったのは事実。できなかった理由は、約束した相手には関係なく、約束を守らなかったという意味では、嘘をついたことになる。これは、インドネシア以外の世界では常識だと思うよ。」

インドネシア人の感覚では、理由を述べれば「仕方ないね」で済むことが大半らしく、「実行する気持ちがあったのだから嘘ではない。」という認識だそうだ。通りで約束が守られない文化が根付いているわけだ。

欧州出身の知人が更に詰める。

「結局約束が守られなかった場合、初めから嘘をつく方がましで、約束をしておいてすっぽかす方が遥かに罪が重い。」

インドネシア人と働く上で、「インドネシア人の時間を守らない。時間を守ることができない。」と駐在員は口々に言う。本質的には、この嘘の意識の違いなのだと思う。結局、インドネシア人の感覚の中では約束というのは、自分がその人の依頼を「なるべく助けたいと思う気持ち」の問題であって、実際に実行するかは二の次である。つまり、依頼をした側からの視点から見れば、相手がどういう気持ちがあるかは関係なく、実際にその約束が果たされるかだけが重要であるにも関わらず、約束した側は理由さえ言えば約束を守る必要はないと考えている。

インドネシア人にとって約束を守らないことは、うそをついている感覚はないので、罪悪感は皆無である。欧州出身の知人の言葉を借りれば、「嘘つきよりはるかに質が悪い。」とはこのことである。

この結果、何が現場で起こるかと言えば、約束を履行できなかった理由を述べることに全精力をかける。

「自分は嘘はついていない。あなたを助けようと思った。でも、家族が熱を出して病院へ送っていかなければならなかった。今朝やろうと思っていたけど、病欠を取らざるを得なかった。」

やる気があったということをひたすら説明する。これを他の国の人々は、「インドネシア人は仕事をせずに言い訳ばかりする」と捉える。ここに大きな違いがある。

インドネシア人の感覚からすれば、「善意をもって、あなたを助けたかったので約束したが、仕方ない理由によって履行できなかった。」と考えており、履行できなかったことを咎めると全力で反論してくる。反論と言うよりも、普段は温厚なインドネシア人も、全力でキレてくる。

「やってあげようと思ったのに、なぜこの人は私を咎めるのか。」

被害者意識が強く、罪悪感は皆無なので、反省や再発防止を考えるには至らない。そして、また同じことが繰り返される。

私の経験では、これは宗教的な価値観の罪意識の問題だけではなく、インドネシアの文化的な背景からくるものなのだと思う。インドネシア人が考える嘘の定義と、世界共通認識の嘘と約束の定義が全く異なる。

インドネシア文化を研究する論者は、強烈に反論してくるだろうが、実務の現場で仕事を回している感覚から見つけた発見である。