差別を嫌い、差別を好む西洋人たち

国際会議に出席していると、英語、仏語、西語、アラビア語、中国語は通訳があることが多い。英語が公用語のことは、当然多い。こうなると、アジアの会議であっても、西洋人が登壇者であることが多くなる。

一歩立ち止まって考えると、おかしなことに気づく。障害やジェンダーの文脈では差別は禁止されるのに、言語はその対象ではない。英語が得意な国は発言機会が多く、他の国は少ない。

技術の発展によって、金を払えば同時通訳をいれることは容易な時代。通訳を雇ったり、機器を導入したりするのには金がかかる。バリアフリー化や子育て世代が働きやすい環境にすることには資金投下を厭わないが、言語による不平等の是正には金を使わない。

新しい機器やAIの登場によって、投資すれば言語の不自由・差別は簡単に是正できる時代となったが、障害やジェンダーのような切り口ではないがゆえに、英語ができない国や人を排除することに国際社会は躊躇していない。

予算割だけでなく、組織の内規もこれに呼応する。障害やジェンダー関連の規程は容易に改善に向かうのに対し、言語の不平等を正そうとするための規程変更はハードルが高い。機器の新調に係る予算割当や調達規程の改定は優先事項とならない。

東南アジア目を向ければ、ラオス、ミャンマー、カンボジア、タイ、東ティモールの代表団は他の国と比較して英語を得意としていない。インドネシア国内でも英語が得意な人とそうでない人の差は大きい。

英語の流暢さが理由で議論に参加できないというのは、差別以外の何物でもなく怠慢だと感じるが、是正されないのは発言権が与えられないがゆえの事象だろうか。

個人的な好みを言えば、差別という言葉が嫌い。差別といえば人気を得られると考える人々が一定数おり、濫用は避けたいと考えている。一方、私たちの住む世界はDiscriminationという英語が大好き。それでいて、英語が話せない人に対する差別は厭わないことに矛盾を感じずにはいられないわけである。