見せかけの民主主義と国民性
時々出会う、英語を話すタクシー運転手。2月14日に大統領選の投票日を迎えるジャカルタでは、大通り、商店街、住宅街、橋、バス停、街路樹など、無秩序に大小さまざまな看板が立てられている。旗やポスターの枚数や様式に指定がないのか、デザインも形も数も場所も、全て統一感がなく、雑然としたゴミだらけの路肩を埋め尽くしている。
聞くと、金を持っていれば選挙は勝てるという。広告も金の許す限りいくらでも。知り合いに金を渡して投票依頼したり。地域の有力者が公的給付金の資格証を優先的に発行したり。ありとあらゆる「不正」が聞こえてくる。どういったルールがあるのかは把握していないので、これらがインドネシアにおいて「不正」なのか合法なのかはわからない。少なくとも、日本や先進国では政治家も投票者も何年も刑務所に入る事案だろう。それが日常的に何百万人、何千万人という単位で行われているとすれば、「民主主義とは何なのか」疑問になる。こういう話は決まって、「知人」の話として伝え聞くわけだが、これだけ頻繁に聞こえてくるのであれば、当人も身内も日常の感覚で出会う事案なのだろう。
タクシー運転手曰く、「インドネシア人は目の前で不正を見たとしても、それを注意しない。他人のやっていることを注意する感覚もないし、注意して面倒なことに巻き込まれるのが嫌だから、誰もやらない。それでいて、ルールを守る意識は皆無なので、ルールを把握している人も、把握しようと思っている人も少ない。ルール違反だと言われれば、個別に交渉して、少しばかり金を払えばたいていのことは解決する。」と。
この会話はインドネシア人の国民性をよく表していると感じる。結局、社会は互いに干渉することがなく、究極のところ、自分の家族やコミュニティ以外に関心がない。「社会を良くするためにルールを定め、ルールを徹底するようにみんなで取り締まろう。」という話にはならない。裏返せば、表向きはルールを決めることで、ルールを重視する人々との仲を取り持ち、もう一方では「なあなあ」にルールを適用しないことで国民からの不満を抑える。これによってこの国は、東南アジアで数少ない「民主的な政府」を持っている。
政府高官と話をしていてよく耳にするのは、「インドネシアは制度を作るのは得意だけれど、徹底することができない。だから、社会保障の強制加入制度を作っても、どうせ徹底することができないから、実質任意になる。」という話。
私はこれを理解はしないが、こういう国民性だということを把握したうえで、制度設計の仕事をしなければならない。