じいちゃんの昭和20年8月15日

「徴兵で友達はみんな士幌から出て行った。そして、俺にもついに徴兵状が届いた。」

生まれ故郷士幌町

大正15年生まれ。今年91歳になったじいちゃんの話をしたい。じいちゃんは北海道士幌町の開拓民の家に育った。士幌町というのは十勝平野のど真ん中にある人口6,000人の小さな町。カルビーのポテトチップスやじゃがりこなんかを作っていて、みんな知らず知らずのうちに日々の生活のどこかで出会っているんじゃないかな。かく言う僕も、僕の母もそこで生まれ育った。

私の生まれ故郷でもある士幌町は、明治後期に岐阜県からの入植者によって開拓が始まって、まだ100年くらいしか歴史がない。1891年に岐阜県で大地震(濃尾地震)があって、現在の美濃市から集団入植したのが歴史の始まり。行先の情報もない、何もないゼロの状態から、極寒の北海道の原野へ旅立った先祖の歴史。

入植したのはじいちゃんのひいじいちゃん。家系図も何もないけれど、伝聞をまとめるとそういうことになる。原野を切り開いて、ヒグマや厳しい気候と戦った先祖。長男ではなかったじいちゃんは分家して、馬を買い、自分でゼロから畑を耕し、士幌町の発展とともに大きな農家へとなった。

じいちゃん、19歳の春

赤紙が届く。徴兵。戦地ではなく、池田町の工場への配属だった。池田町というのはドリカムの吉田美和さんの故郷で、十勝ワインの産地として今では有名だ。その池田町に工場があって、徴兵で19歳の若者が働く場所があったとは、にわかに信じがたい。今ではワイン畑と、長閑な畑作地帯が広がっている。

「徴兵で友達はみんな士幌から出て行った。そして、俺にもついに徴兵状が届いた。」

記憶の片隅に閉ざされた70年前の引き出しを、じいちゃんは静かに開けた。

じいちゃんの昭和20年7月14日

北海道空襲。軍事基地も何もない、原野を耕しただけの田舎町も空襲された。

「真黒な戦闘機が駒場(音更町の一部)へ降りてきて一度爆撃した。緑葉台(音更町の一部)から守備隊の迎撃機が飛び立った。空襲があったために列車が中士幌(士幌町の一部)へ停車していた。そこへ米軍機が機銃掃射し、飛び去って行った。死んだ人はいなさそうだった。」

じいちゃんの昭和20年8月15日

「終戦の日。自宅で玉音放送を聞いた。終戦間近は、毎朝訓練をやっていた。士幌中学校の近くに馬頭があり、そこで竹槍の練習をしていた。中士幌まで馬を走らせ、竹やりと馬の練習をしながら、こんなのでは勝てないと思った。」

じいちゃんの昭和20年8月16日

じいちゃんの徴兵は8月16日付だった。前日の15日に終戦を迎え、じいちゃんは池田の工場へ行くことはなかった。

フィリピンのルソン島での激戦を生き抜いたとか、ビルマでの従軍記などの派手さはない。しかし、その時代を生きた声が、私たちの身近にあり、耳元で語りかけてくる。

終戦一ヶ月前に空襲があり、近所の駅舎が銃撃されたとか、終戦翌日に徴兵予定だったとか。全てが本当の出来事で、全てが偶然その日の出来事となり、私は偶然今を生きることができている。

私の2017年8月15日

私は、士幌町にも、北海道にも、日本にもいない。何もない北海道の原野を開拓した先祖。少年から青年になりかけたじいちゃんが経験した戦争。全てが偶然で、時代の悪戯のようにも思えるが、それが戦争というものであって、誰も望んでもいなければ、予測もできない。

私たちは今日、何を思う。