国際協力の現場が会議室の場合
国際協力を志す人にとって、そのイメージはど田舎へ出張へ行って、インディ・ジョーンズのような冒険的な要素が日常に転がっている場面である。かくいう私もかつてはその一人だった。翻って現実は、現場がランクルでしかいけない場所にある場合と、現場が会議室の場合がある。
残念ながら私の場合は後者であり、国際協力雑誌の巻頭を飾るグラビアには、明日世界が終わると言われても、捻り出す術もない。脂ぎったおっさんやばっさんが掻きむしった髪の毛が表す苦悩に満ち溢れた日の差さない会議室が戦場である。
これは圧倒的な葛藤である。広報的価値に基づけば、よくわからない議論のための議論の場を設けて関係者と談笑した場合でも一本の記事になる。一方、インドネシアで雇用保険制度ができて1000万人が加入していると言っても、「それはあなたの貢献かどうかわかりませんよね?」という話になる。
当然、この規模の話になると、誰か一人の貢献で成し遂げられるものではない。しかし、国際協力の広報やそれによって作られるイメージというのは、いつの時代も直接的な受益者の写真やストーリーであって、そこから遠い間接的な貢献は広報的な意味を為さない。残念だが、これが現実。それでもなお、会議室の国際貢献を好む人は一定数いて、やりがいもある。ただ、広報的価値の薄い支援には資金が集まらず、継続が難しいことも多い。国際協力の矛盾と私は考えている。
会議室が現場の国際協力の話をしよう。「来週末、宿代は払うから、バリ島の会議に来てほしい」と言われ、空港から10分のホテルに土日一泊二日して帰ってくる。月曜日からはまた別の会議。ただ、同じ会議でも、意味を見出だせる会議とそうでない会議の価値観は人それぞれ異なる。おそらく、学生や業界の外側から見れば等しくつまらない会議なのだろうけれど。