私の3月11日-日本は変わるチャンスを失った

6年前のあの日。僕は赤坂にいた。

JICAの同僚と一緒に新人研修の最終試験を受けていた最中の出来事だった。試験はいったん中断となって、そのあと再開された。地震は大きかったが、試験を中止する程ではないという現場の判断だった。

3時半に会場を後にすると、東京の空は真っ赤に染まり、家路を急ぐ車で溢れかえっていた。

「金曜の道路はこんなに混んでいるのか」

新人だった僕はそれまで金曜の夕方に外勤をする機会はなく、初めて見る東京の金曜日に目を丸くしていた。携帯電話が復旧して三陸海岸が津波に飲み込まれる様子を見たのは、それから何時間も後のことだった。

地下鉄もタクシーも使えない東京のど真ん中に取り残された僕は、会社のある麹町まで歩いて帰った。帰社すると多くの職員が会社を早退する準備をしていて、外勤で情報が少ない僕らは後手に回っていた。

結局その日は、メトロもろくに動かず、早々に帰宅をあきらめる人が出てきた。後に「帰宅困難者」と名前が付いたことは記憶に新しい。

花金を会社の硬いフロアで寝泊まりすることを決めた同僚は、太っ腹な上司からもらった一万円札を握りしめ、コンビニへ宴の準備に走った。数分後、おにぎり一つ買えずに戻ってきた同僚の顔は忘れられない。コンビニも、メトロも、居酒屋も、ホテルも、全てが止まっていた。

僕は会社の寮がある千葉の市川まで、歩いて帰ることにした。途中両国のちゃんこ屋で腹ごしらえをして、自宅についたのは7時間後の午前2時。あの日見た寒空の星とひび割れた歩道橋は、忘れもしない。

自分を自分で守る

不安な週末を過ごした私は、普段と変わらない週初めの月曜日を迎えた。心なしか人の少ない路上と電車。会社もソワソワした雰囲気に包まれ、平常心を保とうとする同僚の顔が思いだされる。

出勤後にテレビの中で爆発する原子力発電所を見ながら、仕事へ戻る。そんな数週間を過ごした。

在京の大使館は業務を辞め、関西へ領事機能を移すところも多かった。ヨーロッパ諸国は、日本国内に在留している自国民を脱出させる手配まで行った。僕らは取り残されるのか。そう思っていた矢先、忘れられない言葉を耳にすることになる。

「社会や、会社は、あなたを守れない。自分で自分を守ってください。」

そのとき、悟った。平常心を装って、毎日淡々と仕事を回していくことだけが、僕にできる社会貢献。家族を関西や田舎へ避難させる同僚も多かった。若手で独身の僕には、守るものも、失うものも無かった。

日本が変わる

あれから数ヶ月。会社では17時に一斉消灯が行われた。原発を失った東京電力の供給力が落ちたため、都内の会社は節電に協力せざるを得なくなったのだ。

会社では、「至急」の業務の洗い出しが行われ、後回しにできることは後回しにして業務の取捨選択が徹底的に行われた。

日本が変わる。そう思った瞬間だった。

「今やらねばならない仕事」だけに絞ると、ほとんどの業務が手元から消えた。その結果、誰も残業せずに、会社は回っていった。

日本は変わるチャンスを失った

その数カ月後、何事もなかったかのように、電力が回復し、「至急以外の業務」で残業することが多くなった。

日本は変わるチャンスを無駄にした。今振り返っても、そう思う。

今、政府では「働き方改革」を議論している。残業時間を100時間以内に抑えるだとか。

あのときが最大のチャンスだった。

至急の業務を辞めれば、残業なしで仕事は回る。煩雑な手続きの単純化も考案され、一時的に導入されていた。

その状態を維持する努力をせず、数カ月後にまた元通りになってしまった。

忘れられないこと

自分の身は自分で守らねばならない。

東京が放射能で汚染されても、毎日出社して、社会のために働き続けるしかないという覚悟。

残業なしで日本社会は回るという感覚。

6年たった今でも、忘れることができない。

今日、3月11日に朝日テレビのインターネット番組AbemaTVで、小泉元総理大臣が90分のインタビューに答えた。

そこで出た話で印象的だったのは、「原発無しで6年間、私たちは生活できているし、経済成長もしているが、なぜ、再稼働しなければならないのか」という話。

全くその通りだと思った。僕はエネルギーの専門家でも安全保障の専門家でもないため、原子力政策をどうすべきかは、自信を持って回答できない。

しかし、唯一思うのは、「やらなくてよいこと(仕事)をやらなくても上手くいっているのに、なぜまた再開しなければならないのか」という点。

3月11日以降、日本が変わるきっかけを無駄にした思いが、昨日のことのように思いだされた瞬間だった。