ロンドンで咲いた花
人生は消去法。
そう語った自分の例え話に、妙な納得感を覚える。
居心地の良い場所を探して、次から次へと選んでは消し、消しては選んで。その繰り返しが人生を作っていく。
「ああ、またここも違うか」
選ぶときには知らなかったことが、選んでからわかって、それがまた別の場所に情熱を求めるきっかけになって。そうやって人生は進んでいく。
情熱の天秤。
生きていく上では、いろいろな決断をしなければならない。情熱を天秤にかける。今のままが良いか、次の目的地の方が良いか。どちらに大きな情熱があるのか。そうやって天秤にかけてあれこれ考える。
人生は情熱で動かされていく。
去年、JICAを辞めて、ILOで仕事を始めた。いろいろな人からその理由を聞かれる。その答えは結局、情熱なんだろうというのが今の結論。JICAで働くことに情熱が無くなったかと言えば、そうでもない。今でも機会があれば戻って活躍したいと思っている。むしろ、ILOでの仕事に大きな情熱を感じたというのが正確かもしれない。
「終身雇用を蹴って、契約社員になったのはなぜか」
「JICAの方が国連より素晴らしい活動をしているのにもったいない」
「JICAにいれば日本にいれるのになぜ辞めたの」
「今からでも日本に戻った方が良い」
いろいろな話をたくさんの人からされたけれど、情熱がどこにあるかなんて、自分にしかわからない。それを説明しようとしても、うまく伝わるものでもない。どこに情熱が転がっていて、情熱の天秤がどっちに傾くか。それは自分の中のことであって、人に相談したって解決できるものでもない。
人生は情熱がどこにあるかを探す孤独なひとり旅。
情熱の薔薇が枯れたとき、情熱の薔薇をどこかに見つけたとき、その薔薇は自分にしか見えないたった一輪の薔薇。手元にある薔薇が枯れていないか確認することも大切だけれど、どこか別のところにある薔薇が枯れないうちに見つけるのも大切。仕事にしてもプライベートにしても、それは同じこと。
そして今、僕はどこにいるのだろう。
2016年は変化の年だった。情熱に素直になって生きた一年。手元に今ある情熱の薔薇は枯れていないか。もっと綺麗な薔薇はどこか別の場所にないか。枯れた花もあった。新しく見つけた花もあった。
2017年はまた新しい花を探す年になるだろう。今ある花が枯れないようにするのも大切だけれど、今の僕には新しい花を探すことの方が大切な気がする。
大きな部屋でひとり。
ロッキングチェアにもたれて、日曜の午後の木漏れ日の部屋で寒空を眺める。ロンドンで買った安物のアールグレイから立つ懐かしい香り。
ロンドンで咲いた花。
ロンドンははじまりの場所。そこに降り立った日から、今の人生の扉が開いた。無心で走り抜けた8年間の旅路が、振り返るとすぐそこに真っすぐ伸びている。
そこで咲いた花は、まだ胸の中に咲いているのか。枯れてはいないか。
ロンドンが人生の岐路だった人がもう一人。
目の前でASKAが歌っている。
FUKUOKA
つま先をコンとついて 鞄を脇に抱えて
パンを頬張り駆けて行く 朝の香りが漂う駅へ
発車のベルが鳴る 街が動いて行く
あの頃の僕は何を見ていたのか
いまは昔 昔はいま 誰でもない自分さ
生きるように生きてきた めくれば文字が現れるように
こんにちは さようなら おはよう おやすみなさい
繰り返しながら僕はここに居る
人生は前後左右 いつも未解決
誰も同じ