我が家のトイレ事情から考える政策実施の難しさ
笑い話のような思い出がある。小学校4年生の時、両親が一念発起して家を建てた。北海道のど田舎なので東京のアパート一室より安いかもしれない。
新しい家というのは嬉しい。建設前には神主さんが地鎮祭をやって、新築の家が完成すると、新居の中もお祓いをしてくれる。
それまで町の公営住宅(家賃1万円くらい)に住んでいた一家は、新居で水洗トイレにはじめて出会う。ぼっとんトイレが急に水洗トイレに変わるということは、トイレにおけるルールが大きく変わることを示している。
当然、トイレの使い方に対する政策転換が求められた。子供が小さい頃と言うのは、子供に家庭内の政策を決定するための投票券はない。そこに民主主義はなく、子供にとっては抑圧された絶対王政が常である。当時の敦賀家も例外に漏れず、両親と言う内閣での閣議決定が、有無を言わさず施行された。
水洗トイレは水の無駄遣いだということで、小便の際は「小」マークの方で弱めに流す。これが、新しいトイレの使い方に関する政策である。
私と弟は小便のあとは、小で流すことを徹底した。絶対王政であるから、異議を唱えることは許されない。と言うか、お上の決定に疑問を持つことすらなかった。
しかし、夏になると匂う。小で流すと、力加減によっては残り香が滞留する。この問題を解決するために、「大」で流してよいというお達しが出た。これは嬉しい。流し放題である。
それでも子供の私たちは、それまでの習慣を変えなかった。理由はわからないが、それ以降も小で流し続け、なぜか、その習慣はその後何年も変わらなかった。匂ったままである。
たびたび、「カミナリ」という懲罰がお上から与えられたが、子供の私たちはなぜか新しい政策に適応できなかった。
国際協力の世界では、開発途上国の「政策実施能力の欠如」が大きな課題とされている。しかし、一家という数名のコミュニティであっても、一つの政策を浸透させることは難しい。
開発援助に携わる私たちは、途上国政府に苦言を呈する前に、自宅のトイレをめぐる政策転換でパイロット事業をしてみてはどうだろうか。
自分の言っていることを実践することがいかに難しいかが分かるだろう。